26/05/2026
「この商店街も、ずいぶん寂しくなりましたよ」。駅前商店街を眺めながら、和好さんが語る。「今思うと、私が小さい頃が一番景気が良かったんでしょうね。私が4歳のときに、西武線が開通したんです。まだ小さいから、何がなんだかわからなかったけど、この町にとって相当画期的なことだったんでしょうね」
和好さんに見送られて、帰途に着く。西武秩父線が開通したのは、昭和44(1969)年のことだった。和好さんが生まれた頃は、西武秩父線もなければ、ゆきさんが車を走らせている関越自動車道も存在しなかった。交通アクセスが良くなると、地元を離れて都会に出る若者も増えてゆく。この町には公立高校があったけれど、この春で閉校してしまった。
「インフラが整うと、町から人が出て行くようになるって、すごく切ない話ですね」。ハンドルを握りながら、ゆきさんが言う。「カリモク家具と作品をつくるようになって、木のことをもっと知りたいと思って、『紀の川』って小説を読んだんですね。昔は木を運搬するのは大変で、川で筏流しみたいに運んでいく方法があったらしいんですけど、当時は川沿いに交流が生まれて、そこで婚姻関係が結ばれてた、って話が書いてあったんです。川沿いに恋人を探したり、結婚相手を決めたりするのかって思うと、すごく不思議な気持ちになりました。そこに電車が開通して、自分で恋愛の相手を選べるようになった、って。今だったら車で好きな人に会いに行けるけど、秩父から東京に出るのも、昔は大変だったんでしょうね」
ガラス屋を創業した和好さんの祖父は、明治30年代生まれだ。20代のときに関東大震災が起こると、東京がどうなってるか様子を見てくるようにと言われ、中山道を歩いて東京まで出かけたそうだ。東京まで、どれぐらいかかったのだろう。秩父から熊谷経由で池袋に向かうルートは、およそ100キロ。Googleマップだと徒歩で23時間5分と出る。
和好さんのおじいさんは、誰に命じられて東京まで歩いたのだろう。
その時代に――あるいは、「昭和ガラス」が最盛期を迎えた時代に――家はどんな空間だったのだろう。
「最近、こどもを預けにいくときに、車通りの少ない道を練り歩くことが増えたんです。そうすると、いろんなおうちの前を通るんですけど、表札に男性の名前しか書かれていない家が結構あるんですよね。そういうおうちを見ると、『女性はどこにいるんだろう?』と思ってしまうんですよね」
共働き世帯が多数派になったのは、1990年代――つまり平成に入ってからだ。昭和の時代には専業主婦世帯が一般的で、「家内」なんて言葉もごく普通に使われていた。今、過去形で書いてしまったけれど、そんな考えは今でも根強く残っているのだろう。男性には書斎があるのに、女性はキッチンを自室扱いされる、なんて話も耳にする。
男性が働きに出て、女性は家庭を守る。昭和ガラスがブームになったのはそんな時代だった。家の中で長い時間を過ごすのは専業主婦だった。昭和ガラスを見つめる時間が長かったのも女性だったのだろう。では、その時代の女性たちは、自分好みのガラスの模様を選べたのだろうか?
昭和という時代は、「レトロ」な存在として懐かしがられている。その向こう側には、無数の人生がある。昭和の家に、どれだけ自由があったのだろう。その時代には、長男が家業を継ぐことが当たり前だった。和好さんもまた、そうして家業を継いだひとりだ。お父さんは職人気質な人だったんですかと尋ねた際に、「いやあ、ただ依怙地だっただけですよ」と笑った和好さんの言葉を思い出す。
わたしたちには、自分の人生を自分で決める自由がある。昭和ガラスがあしらわれた宝箱は、あなただけの空間で、誰も手を伸ばすことのできない聖域だ。そんな宝箱が、いろんなわたしの元に送られる未来を想像しながら、すれ違う車のヘッドライトを眺めていた。
『昭和ガラスに出会う旅』 了
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Words 橋本倫史
Photo 工藤司
参考文献
「脚光をあびてきた型板ガラス」『ダイヤモンド』(1967年8月21日号)
板ガラス協会「日本の型板ガラス 過去・現在・未来」『セラミックス』(1969年5月)
田島慶三「日本板ガラス技術の歴史 日本化学会化学遺産認定」『サイエンスネット』(第49号)
吉田 智子・吉田 晋吾・石坂晴海『想い出の昭和型板ガラス 消えゆくレトロガラスをめぐる24の物語』(小学館)
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